2025年4月3日 雨
人は何のために生きるのだろうか。
私たちは生まれた瞬間から、やがて訪れる「死」という避けがたい結末に向かって歩み始める。物理学の観点からすれば、人の一生とは、秩序の喪失とエネルギーの拡散——すなわちエントロピー増大という不可逆な流れに、刹那的に抗い続ける営みだ。また、哲学的な因果論の視点から見るならば、人生とは、いかにして避けがたい「死」に意味や体面を与えるかを模索する道程であるとも言えるだろう。
そう考えると、ふと深い迷いに飲み込まれる。私は何のために生きているのだろう。私の人生には、一体どんな意味があるのだろうか。ある人は愛のために生きる。家族や友人、恋人との絆、その温もりのために。ある人は夢のために生きる。目標を達成し、何かを成し遂げ、自らの足跡をこの世界に刻むために。ある人は「意味」そのものを探すために生きる。「私は誰なのか、どこから来て、どこへ向かうのか」という果てなき問いを追い求めながら。また、ただ生きるために生き始め、やがてその過程の中で「なぜ生きるのか」を見出していく人もいるだろう。
私にとって、その根源的な理由は「家族」だ。家族のために生き、血の繋がりを守ること。それが、私がこの命を繋ぐもっとも素朴で、確かな理由である。
私は裕福とは言えないが、今ある貯金だけでも、慎ましく、そして体面ある人生の終わりを迎えることはできるだろう。生活に困ることもない。衣食住にも不満はない。しかし、ふと気づけば、心の奥にはぽっかりと空いた穴のようなものが残っていた。
人生で最も輝き、最も自由であるはずの時期は、すでに過ぎ去ってしまったように思える。あの頃に経験したこと、あるいは経験できなかったこと——それらはもう、決して戻ってはこない。そして、まだ二十代前半でありながら、これから先に待っているのは、結婚、出産、退職、そして死という一本道。その終着点には、静かに佇む小さな骨壺があるだけだ。
まるで、人はただ「生きるために生きている」かのようだ。生きるために学歴を得て、生きるために働き、生きるために支え合える伴侶を求め、生きるために年金を受け取る。そのすべてが、あらかじめ敷かれたレールの上に存在しているようにも見える。もしそうであるならば、私の「抗い」には、一体どれほどの意味があるのだろうか。
確かに、私たちは社会構造や制度、そして数々の責任に縛られている。自由という言葉は時に空虚で、選択肢は限られているようにも感じられる。けれど、だからこそ、その狭い自由の中でのささやかな反抗こそが、美しく、尊いのではないだろうか。たとえば、時代の流れに逆らって、疑問を投げかけること。当たり前を疑い、「これは自分の意思なのか」と一度立ち止まること。その一歩一歩が、誰にも真似できない“自分だけの人生”を形作っていくのだと思う。
「生きる意味」は、最初から与えられるものではない。それは、ゴールでも目的地でもない。むしろそれは、日々の生活の中にふと現れる名もなき花や、夜ふけに襲う言葉にならない感情、そして「それでも生きていたい」と願う心の奥底の震え——そんな小さな瞬間にこそ、そっと意味が宿るのかもしれない。
今の私は、家族のために生きている。それは決して悪いことではない。むしろ、純粋で、美しい動機だと思う。けれどいつかは、私は私自身のために生きていたい。誰のためでもなく、自分の意思で立ち、自分の足で歩けるように。
生きる意味が、すぐに見つからなくても構わない。ただ、意味を探し続けるその勇気だけは、どうか失いたくない。